Top / 「大阪物語」

&color(Blue){''みんなの歯科ネットワークメールマガジン14号 発行 2007/11/16''};~
&color(Blue){''「大阪物語」 プロローグ''};

僕は何故歯科医師になったのか。18歳の僕はモラトリアムの海に漂っていた。

カインの印でも第六のチャクラでも何でもいいから額に「お前の成すべきことはこれ」
という記号でもありゃ悩まずにすんだのに。でも僕が選んだのは、この職業だった。
動機は極めて不純で、ささやかな「豊かさ」をもたらす仕事に思えたから。

その「ゆとり」を手にすることが僕には「本当に自分がやりたいこと」へのパスポートを約束すると考えた。

それが、とんでもない選択だったことを思い知らされるのは十数年後なのだが。

今でも忘れない。病院実習の最中、駐車場で患者さんと擦れ違った。白衣を着ていた僕に患者さんは笑顔で深々と会釈をした。患者さんには学生も歯科医師も区別がつかなかったからだろう。そのとき僕はとても恥ずかしかった。なんだか、とんでもない職業を選んじまったような気がした。これからの僕には何が待っているのだろうと。期待と不安で。二十年以上前のことだ。そして、僕は今、ここにいる。

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&color(Blue){''みんなの歯科ネットワークメールマガジン15号 発行 2007/12/05''};~
&color(Blue){''「大阪物語」 第一章''};

卒後すぐ就職したのは野戦病院のような医院だった。

卒業したてで実質何もできない僕に軍隊の教練のように即戦力になることが課せられた。院長は「勉強」がとても好きだった。日曜出勤を命ぜられてUSネイヴィのペリオの教科書や莫大な論文をテキストに勉強会。矢継ぎ早に様々な研修会に連れていかれた。

そのときに知ったキラ星のような臨床の大家達の名前。敬称略で。歯周病の片山・石井、金子一芳の火曜会、森克栄、押見一、顎関節症の続、岡・月星の論文、丸森、保母、
総義歯の河邊・加藤・村岡etc.etc。

そして当然のように、歯科医師としての成功者というものが「高度な治療ができること」「保険点数を多くあげること」「自費治療を沢山行うこと」が指標とされる価値観が語られた。

しかし、僕の中で小さな違和感が澱のように積もり続けた。

それは、ある先生の講演会でのことだった。一枚のスライドが投影された。苦しげな患者の顔。「これは初診時のAさんの姿です。彼女は長年苦しんできて・・・」そのとき僕の中で何かが爆発した。「違う!」

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&color(Blue){''みんなの歯科ネットワークメールマガジン16号 発行 2007/12/22''};~
&color(Blue){''「大阪物語」 第二章''};


それぞれの大家の先生たちは、どなたも確かに素晴らしい臨床を示してくれた。
しかし語り口調と何より受講している歯科医師達に共通する「匂い」が僕の中に
いつも小さな不協和音として残った。振り返ってみれば、今に繋がる僕の
診療のスタイルや考えは、初めて勤務した数年間で決まっていたのかもしれない。
目の前にある疾患や障害が僕が立ち向かわねばならない「対象物」だ。
しかし、本当は真摯に向かわねばならないのは
「疾患や障害を有するひとりの人間としての患者という存在」なのだと。
私事であるが勤務し始めて数年後に結婚問題で親と衝突し、当節大時代的な
「勘当」という羽目とあいなった。結果10年近くも絶縁状態となるわけだが。
ひととおりの基本的なスキルもなんとか身につきはしたが、身篭っている妻を抱えて、
僕はまだ混乱と不安の真っ只中に居た。ある日院長が僕を招き、こう云った。
「以前僕が勤務していた、ある医院の分院が今閉鎖していて、
やる歯科医師を探しているのだが、君やってみる気はあるかね?
なに、君なら三ヶ月もしないうちに押すな押すなだよ」と。

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&color(Blue){''みんなの歯科ネットワークメールマガジン17号 発行 2008/01/17''};~
&color(Blue){''「大阪物語」 第三章''};

閉塞しているような状況を変えたかった想いから僕は院長の申し出を受けた。

分院長として新たに勤務した医院は場所こそ私鉄駅前だったが薄汚れた小さな
古いビルの二階だった。一回は怪しげなスナックで上の階には危険な匂いのする
事務所が入っていた。何故か本院の院長はただ僕を雇っただけで格別再始動に向けての
アクションを何等講じてくれなかった。本院からたまに思い出したように患者を
ポツリと回してくれるだけだった。

条件は基本給二十万ちょっとで一定の成績以上には歩合を付けるという条件だったが、
その医院を退職するまで基本給以上手にすることはついになかった。

乳児を抱えて親子三人の所帯はギリギリだった。

三人も座れば一杯の待合室。二台のチェアー、奥にカーテンレールで区切られた流しが
ある畳一畳半ほどのスペースがあり、朝9時に出勤してから夕方6時までずっとそこに
座り続ける毎日だった。患者がひとりも来ない日々が続いた。

刑務所の独房ってこんな感じなんだろうな、とボンヤリ考えた。
僕は何故ここにいるのだろう・・・何をやっているのだろう・・・。
ドナドナの歌が脳裏を繰り返し流れた。 

続く
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&color(Blue){''みんなの歯科ネットワークメールマガジン18号 発行 2007/2/09''};~
&color(Blue){''みんなの歯科ネットワークメールマガジン18号 発行 2008/2/09''};~
&color(Blue){''「大阪物語」 第四章''};

さて「島流し」の憂き目真っ只中の僕ではあったが、人間逞しいもので、そうなると映画「キャストアウェイ」のように「何かすること」を見つけるものであった。とりあえず卒後数年間で疑問に思ったこと判らないことを片っ端から調べ始めた。前に勤務していた医院には学術誌のバックナンバーが莫大に存在していたので借りては読みふけった。時間は有り余るほどにあった。

活字中毒でもあったので図書館から借り出した本は常に手元に積み上げてあった。

苦痛の時間は甘美な時間へと変容した。そして何よりこの時期が僕にとって意義があったのが、「時間を気にせず目の前の患者に向き合う」ことを強いられたことだった。

一日20〜30人を戦場のような速度で診療し、いざというときは院長がフォローしれくれた前勤務時とは全く異質な日々であった。

以前は機械的に目の前に次々と現れる「対象物」に学術的一定レベルをクリアする治療を半ば自動的に施していた。

しかしゆっくりと患者の話に耳を傾ける治療を始めると、そこに居るのは個々の人生を持ち生活しているひとりの人間であり、口腔内に生じたトラブルを抱えて「僕」の元を訪れた「ヒト」なのだった。

妙な言い回しかもしれぬが今まで「歯科医師」と「患者」という役割同士の関係であったのが、剥き出しの人間としての関わりを求められるようになった。

「先生、私の口の中に何が起こっているの?先生、何をしてくれるの?」

これは効いた。

今まで当たり前のように行っていたことを一から見直さざるを得なかった。

「最善か?それがお前の出来うる最善か?」と。 

続く
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&color(Blue){''みんなの歯科ネットワークメールマガジン19号 発行 2008/03/15''};~
&color(Blue){''「大阪物語」 第五章''};

この時期に忘れられない患者がいた。若い女性で可愛いひとだった。~
初診時に主訴を聞き、レントゲン撮影のためフィルムをポジショニングし「右手の人差し指で抑えてください」と言ったところ、とても困った顔で微妙な笑顔を浮かべた。その顔は未だに網膜に焼き付いている。

「どうしました?」と尋ねようとして息を呑んだ。

右手は硬質な輝きを放っていた。義手だった。

黙ってフィルムを自分で押さえスイッチを押した。数度の治療を終え、
今日でおわりという日にご主人が一緒に来院し屈託のない笑顔で礼を述べた。~
赤ちゃんを連れて。診療室の狭い「独房」の窓を開け、夕日の中を楽しそうに
談笑しながら商店街の中を帰っていく
三人の姿を消えるまで見送った。赤ちゃんはご主人が抱いていた。~
奥さんはそれが癖になっているのか右手をずっと左手でさすっていた。~

「ごめんなさい。僕はあなたに治療しかしてあげられません。ごめんなさい。~

僕の出来る限りのことは何でもします。ごめんなさい」なんで謝っているのか
自分でも判らなかった。兄弟のような二人の澄んだ瞳に対して僕は他に言葉を知らなかった。

「目の前の患者に、僕は僕の出来る限りのことを行うしか、僕にできることは無い」
それが僕の中に徐々に核のように育っていった。 


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